セーラムの魔女裁判

16世紀末〜17世紀後半にヨーロッパで荒れ狂った【魔女狩り】が鎮静しかけた頃、「新世界」のはずのニュー・イングランドで、再び魔女達の処刑が始まった。

静かな港町の過去とは・・・

 魔女狩りは14世紀頃から始まり、17世紀前半をピークにヨーロッパ各地で行われた。ドイツだけでも3万人以上の人々が火刑で虐殺されただろうと言われている。ヨーロッパの旧弊な足かせや不条理から逃れ、新しい社会を作ろうとニュー・イングランドにやってきた清教徒の人々も、【魔女の恐怖】から逃れることはできなかった。

「あいつは魔女よ!」と叫ぶ子ども達

 1691年の冬のある夜、セーラムのサミュエル・パリス牧師の家に集まった子ども達は、タイテューバという名の西インド諸島からきた奴隷の女性を囲んで、未来を占う術を教えてもらっていた。そのうち、子ども達はひきつけを起こし、体を痙攣させて異様な声をあげ始めた。慌てて駆けつけた牧師や医師は、『これは悪魔のしわざだ!』と断定。子供たちはタイテューバと2人の女性が『悪魔のしもべだ』と証言した。これがセーラムの魔女狩りの始まりだった。
 子供たちはさらに多くの村人の名を挙げ、捕まった「魔女」は仲間の名前を白状するように拷問を加えられた。まっさきに摘発されたのは、「長生き」とか「耳が不自由」であるとかいった女性がほとんどだった。
 セーラムの魔女狩りは、1692年10月、24人の市民が公開状を作って批判を始めるまで続いた。結局19人が死刑に処され、1人は拷問の最中に圧死した。

「魔女狩り」は過去のものか

 17世紀末、セーラムの人々は英国本国から課せられる重税、海賊の横行、天然痘の流行など、様々な困難に直面していた。人々の緊張や不安が「悪魔」を生んだともいえるだろう。
 困難を「自分とは異質の」誰かのせいにしたがる傾向は現代でもなくなったわけではない。第2次世界大戦中に「非国民」を摘発した日本人も、50年代にマッカーシーに扇動されて「赤狩り」に走ったアメリカ人も似たような心理状態ではなかろうか。現代のセーラムは、笑いながら魔女グッズを買う観光客が大勢いるそうだ。しかし、魔女裁判の歴史を見学した人達の多くは、何か重い問いを抱えて帰っていくようだ。

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